こんにちは~chikuwaです!
いよいよ新しい朝ドラ「エール」が始まりましたよね。
そして、「エール」では小山田耕三の役を志村けんさんが担当していたということが話題になっていましたよね。
小山田耕三のモデルになったのが今回、調べた山田耕筰という人物です。
山田耕筰という人物は、エール主人公のモデル古関裕而が憧れ、目標にしていた作曲家。
山田耕筰がいなかったら古関裕而は作曲家になっていなかったかもしれません。
ということで、山田耕筰を調査しました!
山田耕筰の婚約者や子供は?
山田耕筰の婚約者は誰?
山田耕筰は、何回か結婚していたようです。
しかし、名前が分かったのは、2人だけ。
そのうちの1人は、1915年2月5日、山田耕筰がドイツに留学しているときに出会いました。
そして、その時の下宿先の娘「ドロテア・シュミット」と山田耕筰は、婚約。
顔画像はいくら探しても出てこなかったので顔画像はないですが、もう1人の婚約者の顔画像はありました。
もう1人の山田耕筰の婚約者は、日本人。
婚約者の名前は、辻輝子(つじ てるこ)
辻輝子さんは、山田耕筰と同じ音楽関係の人物でした。
山田耕筰の子供はいるの?
山田耕筰に子供はいませんでした。
ですが、山田耕筰は子供が関係する楽曲を作っているようです。
「子どもとおったん」
引用:Amazonの商品説明の欄から
子どもとおったんは、1916年7月21日から24日までのごく短期間の間に書かれた10曲からなるピアノ小品集で、山田の3番目の姉にあたる阿部信子の子どもたちとの親交から着想を得たもの。「おったん」とは当時3歳だった姪の発音によるものであり、その意はもちろん「叔父さん」のことある。
その他にも「子供の歌」を5曲つくっており、曲の詩は、詩は白秋の「子供の村」をベースにつくっているんだとか。
あとは小学校や高校の校歌を作曲しており、たくさんの子供たちに歌われています。
山田耕筰のエピソード
山田耕筰の主な経歴
山田耕筰は、1886年6月9日生まれで、父親は医師だったそうで、10歳の時に、その父親はなくなってしまったんだとか。
10歳で父親がいなくなるのは、辛いですね。
日本東京都文京区出身で山田耕筰は、1965年12月29日まで生きていました。
学歴は、東京音楽学校とベルリン音楽学校。
亡くなった父親が言っていたとおりに山田耕筰は、巣鴨宮下の学校のようなところに13歳まで勉強し、その後は姉を頼って岡山の養忠学校に入ったそうです。
でも、東京から岡山って遠いし、新幹線も飛行機もその時代にはなかったと思うので、時間もかかるし相当疲れますよね。
ちなみに山田耕筰の姉の名前は、「ガントレット恒」という名前で婚していました。
旦那さんの名前は、エドワード・ガントレット。
エドワード・ガントレットは音楽関係の人物で、山田耕筰は、エドワード・ガントレットから西洋音楽を学び、14歳担った頃、関西学院中学部に転校しました。
山田耕筰は、16歳になり曲を作り曲名は、「MY TRUE HEART」
これは、山田耕筰が人生で初めて作った曲なんだとか。
その後は、東京音楽学校予科入学し、4年後に卒業しました。
3年間、三菱財閥の総帥岩崎小弥太の援助を受けてドイツのベルリン王立芸術アカデミー作曲科に留学し、マックス・ブルッフなどに学ぶ。ベルリン時代の1912年(大正元年)には日本人初の交響曲『かちどきと平和』を作曲した。
帰国後の1914年(大正3年)に、岩崎が1910年に組織した東京フィルハーモニー会の管弦楽部首席指揮者を任されるが、自身の恋愛問題により岩崎が激怒し、資金源を断たれて翌年解散する羽目となる。1917年には渡米し、カーネギーホールで自作を中心にした演奏会を開く。1920年(大正9年)12月には帝国劇場においてリヒャルト・ワーグナーの「タンホイザー」の一部などを日本初演。
有名な「赤とんぼ」を作曲した人物
しかし12月29日、山田耕筰は、79歳の時に心筋梗塞でなくなってしまいました。
山田耕筰はオーケストラを運営していた!
山田耕筰は2つオーケストラを運営していましたが残念ながら、どちらも失敗に終わりました。
「東京フィルハーモニー会」
まずはじめに作ったオーケストラが東京フィルハーモニー会。
このオーケストラは、岩崎という人物から資金援助をしてもらっていたようですが、山田耕筰には嫁がいるのにも関わらず、別の女性と不倫しました。。
その事に怒った岩崎は、資金を援助するのを辞めてしまい金銭的に困った山田耕筰は、1916年の2月に解散。
「日本交響楽協会」
山田耕筰が東京フィルハーモニー会のリベンジとして作ったのが、日本交響楽協会。
ですがこれも関東大震災で解散してしまいました。
山田耕筰はカルピスの名付け親?
最後に、山田耕筰がカルピスという名前を考えたそうです。
山田耕筰は、カルピスの創業者の三島海雲に頼まれて考えたのがカルピスで
「最も響きがよく、大いに繁盛するだろう」という山田耕筰の発言でカルピスの名に。
ちなみに有名な話ですが、カルピスは英語で「牛のおしっこ」を意味するので欧米ではカルピコと言うそうです。
山田耕筰のまとめ
- 山田耕筰の婚約者は複数いて、子供はいなかった。
- 山田耕筰はオーケストラを運営するも挫折。
- 山田耕筰は「カルピス」の名付け親
コメント
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